お店の中で、床に寝転がって泣き叫び、だだをこねる。
これ、幼かったころの娘にやられたことがあります。
マックの店のまえでやられたときは、夫が犯人だと判明しました。
(夫は、娘といっしょに散歩に行くたびにマックでポテトを食べていたのです。シラナカッタ)
床に転がって泣き叫ぶという行為は、娘をつれ歩く当時30代母にとっては「ヤラレタ!」という衝撃です。
娘のだだだ
マックのポテト事件以外は、お店から出たくない、帰りたくない、というだだこねが多かった気がします。
お店の出入り口でね、娘が寝っころがって泣き叫んで、だだをこねるわけです。
あのときの、母親としてのいたたまれなさときたら、もうね。
あれは、やられたことがなかったら、わからんです。
自動ドアのまえで寝転がってだだをこねはじめる娘を、引きずって、出入りする人々のじゃまにならないようにして、おさまるのを待つんです。
これがまた、つらいんだなァ。
それで、わたしが考えたのは、娘のまえにしゃがむ方法です。
もうね、あやすとか、そういうんじゃないんです。
ただ、もう、人目もはずかしいしさー、顔なんかあげていられないわけですよォ。
人様がどんなを顔して、われら親子を見ているかなんて考えたら、耐えられんですよ。
そんなわけで、お店のすみっこで寝っころがって泣き叫ぶ娘のまえでしゃがんで、なにかを語りかけるような振りをして、娘の身体をなでさすったりしながら、このつらい時間をやりすごしました。
はたから見たら、娘にだだをこねられて困っているおかーさんがなにか語りかけている感じ、をよそおっているつもりなんです。
まー、横を通り過ぎる人々がどんな顔してこっちを見ているかなんて、知らんけどね。
恥ずかしいので顔もあげずに、うんざりしながら娘を見つめていた当時30代母です。
あれはー、もう、ほんとうに、耐えがたい時間なんですよ、母親にとっては。
んで、あるとき、夫が娘をつれて散歩に出たときも、娘が道ばたに寝っころがってだだをこねはじめたそうです。
夫は、仁王立ちで娘が泣き止むのを待っていたんだって。
そしたら、通りすがりの年配の女性が「どうしたんですか?」って声をかけてきたそうです。
夫は「どうもこうも、子供が泣き止むのを待ってるんです」と答えたというんですけど。
仁王立ちなんかして、泣き叫ぶ子供を見下ろしていたら、父親が叩いたのではないかと誤解されたらどうするね、といいました。
だって、もう、そういうときの娘って、どーしようもなかったんですもん。
する子しない子
だから、息子が成長して、3歳くらいになって、夫とにやにやしながら「そのうちひっくり返って、泣きながらだだこねるようになるんだよ。またくるよ、あれが」なんていっていたんですけど。
息子は、だだをこねませんでした。
お店の床でも、道路でも、ひっくり返って泣き叫ぶって、息子はしたことがないのです。
気質、性格、なのでしょうか。
生まれ持ったなにかが、子供をひっくり返らせ、泣き叫ばせるのか。
する子としない子がいる。
娘はする子、息子はしない子。
吉田戦車さんのマンガに、だだをこねる子供を見て、みごとなだだだ、とかいうのがあって。
子供のだだこねって、だれにならうわけでもなく、ひっくり返って手足をバタバタさせて泣き叫ぶのがふしぎな気がします。
あれがだだこねの最高潮かな。最高形態っていうのか。理想形?
いまも、他人の子供がだだをこねる姿を見かけることがあります。
うちも、あんなことがあったなァ、と思いながら、気のきいた言葉かけができるわけもないので、見て見ぬふりをして通り過ぎます。
あれなァ、母親にはきっついんだよなァ、他人の目がなァ。
そして、あるとき気がつくと、やらなくなっているんだよなァ。
子育てって、そういうことがありますね。
気がつくと、やらなくなっていて、そういえばそんなことがあったなー、っていう。
渦中にいたら、それどころじゃないんですけどね。
ではまたー。