「森のノート」をひろげて思うことには。

森のノート、酒井駒子、筑摩書房 本のこと
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ちかくに森はないのだが。

40代主婦がこっそりひそんでいてもいいような場所がないので、家にこもっているような。

心のトンネルの向こうに、森をおいて、クマを放つ。

この場合のクマは、メルヘンなクマであり、猟師さんを呼んでバンバンしてもらわないといけないようなおそろしいクマではないのです。

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自分の中の森

森のノート、酒井駒子、筑摩書房

ある詩人のパトロンをしていたという人が、生涯その詩人とは会わなかった、という話があって。

それはどうしてかというと、自分の中のメルヘンをたいせつにしたいからなのだ、と。

その詩人は現実にはいろいろとうわさのある人だったらしく、そういう部分を見たくないからというような、どうやらそういうことらしいのでした。

会おうと思えば会えるのだが、あえて会わないというような。

森のノート、酒井駒子、筑摩書房

(「木」のフォントがあつまって森)

 

現代ですと、ネットでもって、ですね。

ツイッターだの、フェイスブックだの、ですね。

べったりとつねにチェックするような。

人によっては、そんな見つめ方もできてしまうわけですけれども。

 

そういう見つめ方をしたいわけではない。

ただその人の描くものを、ぽつぽつ見ていたい。

全作品をかき集めるようにして見るわけでもなく、ときどき作品を見かけては、しばらく目を留める。

そういう感じです。

 

わたしの中にはそういう人が、何人かいて、酒井駒子さんの作品も、そういう感じ。

絵や名前を見かけると、つい目で追ってしまうが、だからといって即ぜんぶ買いするわけではない、という。

しかし、この秋、ついふらふらと買ってしまったのが「森のノート」です。

森は、秋でしょう。

よろこびを噛みしめながらすこしずつ読んでいます。

 

ではまたー。

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