高2娘の発言、小6息子の発言にカチンときて、家庭の快適さについて考えたこと。

枯れた花イメージ 子育て
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思えば、わたし、高2娘にすっごいこと言われているナ、と。

それがあまりにすごくて、頭をぶん殴られるような、重い衝撃だったわけなのですが。

そして、あまりにヒドイので、ブログ書く気にもなんねーよ、言葉ってのは呪なんだよ、書き表すことによってそれに縛られちまうんだよ、ウワァアアア、となったので書かなかったんだけど。

わたし、高2娘に「もっと、ふつうのやさしいお母さんがよかった!」と言われたんだよな、たしか。

す、すごいよな、コレ。

高校生の娘が、泣きながら、面と向かってコレ、言ったんだぜ? という衝撃。

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世の中の娘は、母に向かって面と向かってそんなこと言ってるの?

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わたし、すごく、不思議に思っているんですけど。

世の中の娘という存在は、母親に対して本音でぶつかるものなのでしょうか?

わたしは、すごく不思議でならないのです。

結局のところ、わたし自身は、実母に対して本音でぶつかることをやめたのです。

ときどき、他人の母娘を見て、おどろくことがあります。

あるときは喫茶店で、成人した娘が母親に対して説教しているのです。

母親の健康について、きびしく問いただす娘。

娘のきびしい口調に、その母親は殊勝な顔をして「そうなのよねェ、わたしも気をつけたいと思っているんだけど……」と返しました。

となりの席で、そのやりとりを聞いてしまったわたしは、とても不思議な気持ちがしました。

成人した娘が年老いた母親にきびしい口調で注意をする。

年老いた母親が、娘の意見に同調し反省する。

わたしにはとてもマネできんな、と思いました。

そもそも、わたしは自分の母親とうまく会話ができないのです。

母親と会話するには、母親の機嫌をそこねないようにしなければいけません。

母親に期待をしてはいけません。

だから、自分の気持ちを入れないようにして、思い入れのない会話をします。

母親がどこで爆発するか、わからないからです。

そういう会話は、わたしを疲れさせます。

ですから、わたしは母親と会話をしないように心がけています。

また、さいきん、わたしは以下のような怒鳴り声を聞きました。

「できもしねぇくせに、つくるんじゃねぇよ。まじいんだよ。くそばばぁ!」

この発言の主は、第一子を出産した近所の若い奥さん。

まめに手伝いにきている母親に対しての暴言なのです。

どうやら母親の作った料理が激マズだったため、このような暴言となったみたいでした。

その娘の発言に対して、母親の謝罪の言葉ははっきり聞こえなかったのですが、怒鳴り合いはつづかなかったので、母親の謝罪によって幕引きとなったのだと思います。

これも、すごい。

本音で語っている。

自分の母親に対して、本気でおこって、口汚い言葉で、ののしっているのです。

近所のわたしにまで聞こえてしまう大声を出して、自分の母親に感情をぶつけているのです。

それができる母娘関係なのです。

わたしは、このような感情をむき出しにできる人、また人間関係におどろかされます。

そこで、わたし自身の娘の発言に立ち返るのですが。

つまり、娘がそのような発言(「もっと、ふつうのやさしいお母さんがよかった!」)をわたしにするのは、わたしに対して、そうした発言ができる相手であると考えているからでしょう。

そのような発言をしてもゆるされる、というような。

だいたいさー、「ふつうのやさしいお母さん」って、どんなんだよー。

わたしも会ってみてーわー、みたいな。

そんな気持ち、ですよね。

幻想の、フツーの、やさしーお母さん。

「考えてみろ。そんなのは、現実に存在しないんだよ?」

「もうそんなこと、わかる年だろ?」

そんなツッコミを入れたくなったんだけど、さすがにそこでは口をはさみませんでした。

そうかー、わたしは、ふつうじゃない、やさしくないお母さんなんだなァ。

なんか、前からそんな気がしてた。

ずっと、フツウっぽくしようとしていたけど、やっぱりフツウじゃなかったんだなァ。

娘は長女だから、変なところできびしくしたかもしれないけど、わたしなりにやさしくしたつもりだったけど、そもそも、その基準となるわたしがフツウじゃないとすると、世間一般のやさしさとのズレが生じているんだなァ。

などなど考えて、ずるずると床にくずれ落ちてしまいたくなる気持ちになったのでした。

過去記事⇒自分はアスペルガーじゃないかと疑っている40代主婦の今日このごろ。

この家庭、居心地わるい、と感じたとき

娘にえんえんと攻撃的な言葉を投げつけられた40代主婦は、もう家にいたくない、家を出たいと思いました。

でも、家を出られるわけもなく。

そんなある日の新聞に、こんなことが書いてあったのです。

ある人にとって快適な社会は、ある人にとって不快な社会である、とかなんとか。

最終的にみんなが少しずつ不快や不便を感じる社会を目指そう、という内容でした。←たぶん

そこで考えたことですが。

家庭でも、特定の家族だけが快適な家庭の場合は、その他の家族が不快をがまんして過ごしているのではないか、と。

特定の家族というのは、年齢や性別、収入、強さ、声の大きさ、その他もろもろで決まります。

自分の快適さが、誰かのものすごいがまんのおかげだとしたら?

それって、わたしの目指す家庭の姿か?

ちがうなァ。

ということで、わたしは、ときどき年頃の娘に感情のありったけをぶつけられて母親としての自信を喪失するような思いをしながらも、この家庭にとどまることを決意したのでした。

このごろは、小6息子からの食事に対するチクチクとしたこまかい注文に、イラッとしておる40代母です。

でも、小6息子のような存在は、自分の気持ち、自分の意見を家庭以外では言えないわけだから、それは貴重なご意見として受け止めております。

まぁ、イラッとするんですけど。

カッチーン、とくるんですけど。

でも、臨時休校が終わったことによって、わたしのひとり時間がもどってきて、なんとか心のバランスを取り戻しつつあるようなないような。

そんな日々ですね。

ではまたー。

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