週末、息子と将棋をしたあとに。
息子がおもちゃの入った引き出しを開けて、「あー」とがっかりした声を出しました。
どうやら、ジェンガの箱のフタが開いて、中からジェンガが流れ出てきたらしい。
息子はジェンガの箱を引き出しから出しました。
「いっぱいすぎるね」
と引き出しの中を見て、息子がいいました。
「これいらない、捨てる」
そういって、息子が置いたのはなにかの景品でもらったおもちゃです。
水中のなかで輪投げをするおもちゃ。
おもちゃをもらうのはかんたんだけど、捨てられない
わかりやすく考えるなら、ハッピーセットのおもちゃみたいな。
子供をつれてなにかのもよおし、イベントに参加したり、あるいは、ただどこかで食事をするだけで、子供はおもちゃを引き当ててくる。
カゴいっぱいにはいったおもちゃを差し出されて「どれでもひとつ、好きなものをとってね」
(そういわれて差し出されたおもちゃの中に、ときめきを見つけたことはない)
親は子供のうしろで「すみませェーん、ありがとうございますゥ」などといいつつ、内心「いらん」と思っている。
(夫ですら、そう思っている)
3歩ゆずって、ノートとかメモ帳ていどにして欲しいです。
いやそれも正直、いらない。
アメのほうがいいんじゃないかな。消えもの。食べてなくなるもの。
でも正直それも。
おもちゃのタイミングって、じっとしていられない子供に、とりあえずなにか興味を引くようなものをわたして、すこしのあいだでもだまらせておく効果があるものだとしたら、よろこばれる。
でも、わが家の子供たちは、息子ですらそういう時期を過ぎているし。
ほんとうに小さいとき、お店の人がわたしてくれたおもちゃのおかげで、子供の気がそれて、そのすきにごはんを食べられた、というのだとしたらありがたい。
そういうことでもなかったら、つまりわが家にはそういうことはもうないから、無料配布のおもちゃはいらない。
いままでで、おもちゃをもらってよかった、助かりました、と感じたのは、伯母の葬儀に3歳の娘をつれていったときです。
葬儀場の係りの人が、娘におもちゃをあげて、それで娘は夫と二人でうしろの席でしずかに過ごすことができた。
葬儀の席に子供を連れていったのははじめてだったし、そうした場所におもちゃを用意するなんて思いもつかなかった30過ぎの新米夫婦だったのです。
いまはもう、ほんとうにいらないです。
でも子供は、カゴいっぱいのおもちゃを「どうぞ」って差し出されたら、もらわなければいけないと思っているし、もらうからにはいちばんいいものをもらおうって考えている。
そのようすを見ているのは、たのしいです。(でもいらない)
子供の意外な選択、決定とか、見ているのはおもしろいです。(でもほんとうにいらない)
そして、1年弱わが家の引き出しに入っていた、おもちゃがひとつ減りました。
おもちゃは子供の気持ちにまかせて、手出しせず、引き出しの中身は見ないようにしています。
まーねー、おもちゃの7割はわれわれが買っていますからねー。責任が。
それにしても、子供たちがハンバーガーが苦手なのはさいわいです。
ハッピーセットのおもちゃを捨てられない話はよく聞きますから。
もったいないから捨てられない、こわれないから捨てられない、
ハッピーセットのおまけですらそうだ、というのですから。
きながに。
ひたすらきながに、おもちゃが減るのを待ちます。
ではまたー。