ついつい、子供のノートの処分をためらってしまう40代母です。
子供の絵や文字にいとおしさを感じてしまうと、もうどうしようもなく、ノートを繰る手がとめられない、というような。
そんなセンチメンタルなものに取りつかれてしまうと、どうにも、なんにも捨てられなくなってしまうんじゃー。
この春休み、使わなくなった学用品を捨てていくどー、と思っとります。
子供のときの記憶を取り出す
自分のノートの記憶ではなく、兄の絵日記の記憶があります。
むかし、兄が(つまり3人のうちのひとりですが)、祖母から超合金のマジンガーZを買ってもらったときのことを絵日記に書いていました。
たしか、先生の赤ペンメッセージもあり、「超合金」という3文字の横に丸が書いてありました。
その絵日記を書いた当時の兄は、小学校低学年だったはず。
超合金という3文字を漢字で書いたことに対して、先生が丸をつけてくれたのです。
わたしの記憶のなかのマジンガーZは、塗装がはげて、ロケットパンチの片方がなくなっていたような、ぼろぼろのおもちゃでした。
兄に、なぜ祖母がマジンガーZを買ってくれたかというと、その兄が祖母の部屋で眠ったからでした。
祖母の部屋で眠った翌日、祖母はやさしくなっておもちゃを買ってくれたのだそうです。
兄はそのようにいっていました。
いまにして思うと、その日記は、兄の傑作日記だったのかもしれません。
母が保管していたのかと思っていましたが、兄が取っておいたものだったのかもしれません。
兄にとっての、うれしかった記憶だからです。
弟や妹に語るような、うれしい思い出だったのです。
それ以上に、兄にはうれしかった記憶がなかっただろうか。
そのように考えてしまうと、やはり、むかしのことに執着するのは、よくない気がするのです。
むかしのことばかりが、よく見えてしまうというのは。
いま、いろいろあるけど、こうして過ごしているのがいいんだ。
そういう気持ち。
いまをもっとよくしていこう、として日々を過ごす、とか。
そんなふうにして、その日その日、1日を過ごしていくような。
そーいうのがいい、と思えるような、そんなの。
そんなの、ですね。
わたしは、そんななの。
ではまたー。