(あるコドモギライの記)
わたしは子供がきらいでした。
いわゆる子供、というものがきらいでした。
甥や姪をだっこしたこともありませんし、まえから子供が歩いてきたらさけて通りました。
電車で子連れがとなりにすわったら席を立つ、とか。
だいたい、目安としては、そのくらいのコドモギライでした。
とても愛嬌のある女子高校生のバイトさん
あるとき、わたしはしかたなく接客のバイトをしたことがありました。
飲食店で、女子高校生といっしょに働くことになったのです。
その女子高校生は、はきはきと話して気くばりもあって、きちんとした女の子のイメージでした。
いっぽう、そのころのわたしは30歳手前です。
まったくもって接客にむいていない、アラサー独身女です。
そんなわたしよりもその女子高校生のバイトさんのほうが、よほど接客になれています。
笑顔で接客できて、とても愛嬌のある女子高校生のバイトさんだったのです。
兄の子供vs女子高校生のバイトさん
そんなある日のことです。
兄の家族がお店にやってきました。
というのも、そのお店は兄がはじめたお店だったからです。
当時、アラサー独身のわたしがそのお店で約14時間の労働を強いられていたのは、そういうわけです。
時給は考えてはいけないレベルです。
家族というブラックな企業。
さて、お店にやってきたのは、兄嫁と姪と甥です。
そのとき、小学校低学年の姪、甥は生まれたてでした。
わたしは子供が苦手なので、遠巻きに見ています。
遠巻きに見ていたわたしは気がつきました。
あんなに愛嬌のよく見えた女子高校生のバイトさんが、めっちゃ不機嫌な顔で姪や甥をにらんでいる!
その光景は、わたしにとって衝撃的でした。
いままで、わたしは自分のコドモギライについて、友達以外に話したことはありませんでした。
家族はたぶん感じていただろうけれど、それについて非難されたこともなかったのです。
しかし、目のまえのコドモギライ女子高校生の顔を見たとき、「わたしも子供のまえでこんな顔をしているのかもしれない」と思ったら、すごく、いやになってしまった。
ものすごーく、いやになってしまったのです。
コドモキライですアピールはやめた
いま思い返すに、わたしは自分以外の人間はたいてい子供が好きで、子供と上手に接することができる、と思っていて、その女子高校生のバイトさんにもそうした子供好きの態度を勝手に期待していたのかもしれません。
姪や甥がとくべつなにかをしたわけでもなく、女子高校生のバイトさんはすこしはなれた場所にいました。
子供の存在自体が不愉快である、といわんばかりの目つきをした女子高校生のバイトさん。
自分の身内である甥や姪が、他人からそのようなまなざしで見られている、というのがいやだったのかもしれません。
でも、それ、いままで自分がしてきたことじゃないの? っていう点でも、グサグサッとわたしの心に刺さったのでしょう。
そうしたことがあってから、わたしは、ろこつなコドモギライはやめよう、と心がけました。
子供が苦手なのは変わりませんし、子供がかわいいと思えるようになったわけでもありませんが、とにかく、ふつうの態度で子供を見るようにしました。
ふだん、子供と接する機会がないのですから、とりたてて生活が変わったわけでもないのです。
なんというか、子供をいやなものとして考えたり、不愉快なもの、警戒すべきものとして見るのはやめたのです。
以上が、わたしがコドモギライを返上したきっかけです。
そののち、わたしは結婚し妊娠し出産し子育てをしています。
結婚前にある人から「キライなんじゃなくて苦手なんだよ。慣れていないだけ」といわれたのも、わたしの気持ちをかるくしてくれました。あれからずいぶん慣れましたよ。
では、いまのわたしがコドモズキかというと、そういうことではないわけです。
ただ、新生児のありがたさとか、ハム状のむちむち感とか、子供を育てていなければわからなかったことがわかって、世界がひろがりましたね、ていどのことです。
それと自分が日々接する多くの人々が、おそらく自分より年下なんだぜ、ヒェー、という現実ね。
逆上がりはもうできないけど、赤ちゃんのだっこはまだできるなぁ、と。
そんなことは思うわけです。
ではまたー。