今月になって、たまたま読んだネットの文章の中にこんなのがありまして。
「そういう母親は『自分が娘にきらわれているんじゃないか』と思って過ごしている」
それで、腑に落ちたことは、つまり母は、ネットでいうところの「自己紹介乙」だったのだ、ということです。
つまり、母は、祖母がキライだったのだ。タブン
やっと死んだ、バンザイ!

わたしの祖母が死んだのは、わたしが20歳のときでした。
そして、祖母が死んで、祖母の寝ていたリースの介護用ベッドを返却して、がらんとした祖母の部屋で、母がバンザイをしました。
わたしの目のまえで。
「バンザーイ。ああ、やっと死んだ。死んだ。バンザイ。あ、は、は、は、は」
みたいな、そんな感じ。
それを、娘(わたし)のまえで。
わけがわからん。
そう思って、絶句しておりました20歳のわたし。
ただ、母は、生まれてからずっと母親(祖母のこと)と暮らしていた人です。
つまり、50数年ずっといっしょ。
戦争寡婦の祖母は、かなり気がつよかったというし、きびしかったらしいし、まー、いろいろあったんだろうな、と思って。
50数年も母親とずっといっしょに暮らすって、たまらんこともあっただろうなーと。
それで、そういう言葉が母の口から出てきたも無理はない、と思いました。
ただ薄気味のわるさを感じつつ、「バンザイ」と手をあげて、笑い、涙をながす母親を見つめていました。
結論、母は祖母がキライだった
つまるところ、母は祖母がキライだったのだ。タブン
そして母は、自分がそうであるから、娘であるわたしもまた母親がキライなのではないか、と考えていたのだ。タブン
と、今月読んだ文章で気がついた40代主婦です。
そこで、「くまこちゃんは、お母さんのことがキライなんでしょ?」という母の過去の発言、返答できなくて絶句するわたしへの「おまえもどうせそうなるんだ」という呪いのような言葉 がつながって、腑に落ちました。
つまり、呪いの言葉ではなくて、母の自己紹介だった。
あれは、息子の出産後、本来は父が来る予定だった産後の手伝いに母がやってきて、子供たちが眠り、夫が帰ってこない夜に、母が口ゲンカをふっかけてきたときでした。
母からさんざんなことをいわれ、わたしは子宮が痛くなって出血を感じて、しかし母の言葉は止まらず、おなかの痛みにうずくまる娘にも気づかない母親を情けなく、悲しく思って涙をながしたら、ようやく母は言葉を止めました。
それは、わたしの体調変化に気づいたからではなく、母の言葉にわたしが涙したとかん違いして満足したのです。滑稽です。
キライと思ったこともなければ、スキと思ったこともない存在
さて、わたしはすでに娘から「大っキライ」と何回かいわれています。
娘を怒らせたとき、わたしは娘にとって「大っキライ」な存在になっています。
わたしは、母を大スキになったこともなければ、大キライになったこともありません。
ゆるすゆるさない、と考えたこともありませんでした。
ただ、あきらめています。
母に対して大きな感情のゆさぶりを起こしても、わたしが疲弊するだけだから、あきらめています、という感じ。
ありがたいことに、母には母なりのたのしい生活があり、ここ数年は電話のやりとりだけしかありません。
母は母の満足する世界にいて、その中にわたしがいるとしたら、それは母が満足するわたしでなければならないでしょう。
そこには亡くなった兄の遺影があって、口答えもせずに、ただ母の語りかけを聞いているだけの存在として、母を満足させているのかもしれません。
そうしたセンチメンタルな母親世界を妄想しつつ、この連休は夫の実家へ帰省します。
ではまたー。