おとといの新聞の1面記事に、国際学習到達度調査(PISA)の結果が出ておりました。
調査の対象年齢は15歳です。
高1娘も15歳。
その調査で、日本の15歳の読解力の順位が、前回2015年の8位から、2018年は15位に下がった、というんですね。
つまりー、長文読むの苦手になってるんじゃないのー、SNSで短文のやりとりばっかしてるからさー、なんてことが新聞に書いてあったわけです。
高1娘「はァ~?」←怒りを含んだ声色
わが家の若者がプンプンですよ
おとといの読解力急落ショック記事を受けて、昨日から「国語力が危ない」という短期集中連載がはじまりました。
(わが家は『コボちゃん』『猫ピッチャー』の読売新聞です)
1面に縦書きで「文章作れぬ若者」の文字。
40代母はさっそく高1娘に報告しました。
「今日の新聞で、また若者がディスられてるよー」
そんなわけで、朝のいそがしい時間に、高1娘が食い入るように新聞を読み始めました。
わが家でいちばん新聞を読む(ヒマがある)のは、わたし。
さいきんは小5息子がコボちゃん、猫ピッチャーのついでに読みます。
夫は週末に読むくらいです。
高1娘は基本的に読みません。
そこで高1娘さんには、わたしが「おいおい、今日の新聞にこんなことが書いてあるんだけどォ?」みたいなノリで、まず口頭で伝えます。
そんなとき、できるだけ高1娘が食いつきそうなこと、たとえば大学受験、高校生の話、教育改革などを選びます。
そうすると、「ほーん」で終わることもあれば、「貸して」とみずから読みだすこともある、ってな具合。
今回の記事はセンセーショナルな見出しで、みごとわが家の女子高生さんが食いついてくれました。
娘の国語力はどうだ?
では、高1娘自身の国語力はどうなのか?
これについては、娘が中3のときのV模擬における国語の作文しか知らんのですが。
時間さえあれば、娘は12点満点中10点が取れる実力がありました。
当時、娘は10分あればV模擬の作文が書けるといったので、「それはすごい」とほめました。
ですから、わたしは受験生の娘に「苦手な記述問題に時間を取られて作文に手がつけられなくなるよりは、記述問題をあとまわしにして作文を書いたほうがいい」と助言したのです。
だってね、作文て、苦手な子はまったく書かないんですよ。
書かなきゃ0点なんだから、とりあえずなんか書いておけ、ってなるんだけど、書けない子はまったく書かないし、書いても自信がないからぜんぶ消しちゃったりするの。
新聞には、「この公園には滑り台をする」と書く受験生、「、」(読点) でつなげて1文800字の作文を書く高校生の話が挙げられていました。
高1娘は1文800字の作文に「これはない」と申しておりました。
でも、いま思い出したけど、娘のV模擬の作文中にも助詞がおかしい1文がありましたなぁ。
特殊技能としての読み書き
印象的だったのは、「今や『読み書き』は特殊技能のひとつ」という某大学教授のコメントでした。
読んだ直後は、おおげさだなァ、と思いました。
しかし、(←このような接続詞が使えない若者が多く、「そして」「そして」「そして」と、ぜんぶ「そして」でつないでいくのだそうです。閑話休題)もしかすると、ほんとうに、文章を書くことは特殊技能のひとつかもしれない、とも思うのです。
それは、じつは、多くの人が自分の特殊技能に気づいていないだけなんだー、という意味において。
特殊技能、得意なこと、できること。
自分ではあたりまえにできるから「このくらいだれにでもできるわよォ」と謙遜してしまうようなこと。
そんなあたりまえが、世代の違い、育った環境、その他もろもろによってちがうんだよねー、ということ。
ある人は、英語を筆記体で書いてみせただけで「お母さん、スゴイ!!」といわれたそうです。
わたしの世代だったら、あたりまえに英語の筆記体をならったものでした。
いまは筆記体をならわない(こういう書き方もあるよ、と紹介するだけで終わる)ので、いまとなっては英語の筆記体だって特殊技能といえるのではないでしょうか。
たとえば、自分にできないことをさらっとやってのける人は、特殊技能を持っている人に見えます。
また、文章を書ける利点があるとするなら、それは自分の考えを自分の言葉で表現できるということ。
いわゆる自己表現です。
これはかなりのカタルシスでしょう。
特殊技能が自己表現の手段となるとしたら、現代においてかなり強力なスキルを所有していると考えることができます。
だからさ、文でも絵でも料理でもハンドメイドでも、どこかに発表したり、発信したりするのはイイコトだと思うんですよね。
自己満足的に、ね。
まー、けっきょく、そんなところです。
ではまたー。