娘の成長は、高校受験をピークとして日々つづいております。
そして今年、わたしは娘と話していて、いまさらながら気がついたことがありました。
それは、わたしの一人称「かあちゃん」でした。
わたしは自分を「ママ」と称するのが恥ずかしく、子供たちには「かあちゃん」と呼ばせているし、子供と会話するときの一人称は「かあちゃん」と定めていました。
しかし、この一人称「かあちゃん」がほころびかけているのです。
というのは、娘が高2になって、素の「わたし」として対応する機会が多くなったからです。
つまり、わたしは自分を「かあちゃん」と呼びあらわすとき、母親としての自覚と母親としての建前、その他もろもろの世間一般の大人としてのなにかをまとって、子供たちと会話していたのではないか、ということです。
(下に行くにつれて、話が飛び、どうかしてくるのですが、ここはそういう主婦ブログだよ!)
母親という鎧のようなもの

今年になって、わたしの一人称は混乱していました。
高2娘と会話している最中に、「かあちゃん」ではなく「わたし」が出てくるのです。
「わたs……あ、かあちゃんは……」
というような、いいまちがいが増えました。
年のせいか?
わたしは一体どういうことか、と思いつつ、と高2娘に「なんか、かあちゃんとまちがえて、わたしっていっちゃうんだよね」といいわけのようにいったのです。
すると、高2娘は「いいんじゃないの、『わたし』で」といいました。
そう、わたしが話しているのだから、一人称は「わたし」でまちがっていないし、娘と話していたのだから「かあちゃん」でもまちがっていません。
ぶっちゃけ、どっちでもいいこと。
なのに、なぜ自分は「わたし」が「かあちゃん」でなければならない、と考えて訂正したのか?
それは、わたしが高2娘と対話するときに、母親としての立場から逸脱してはいけない、と考えているからではないか?
わたしは自分を「かあちゃん(母親)」という立場に置いて、高2娘と対話していて、わたしをかあちゃんのなかに押し込めている、というような。
わたしの、「かあちゃん」の、崩壊
思えば、崩壊は、わたしの食生活の身勝手から始まったといえましょう。
わたしは去年から、グルテンフリーの、カゼインフリーの、と家族の食事とはべつの、まったくもって好き勝手な食生活を実験的におこなっています。
わたし以外の3人がハンバーグを食べているときに、わたしひとりがおからに豆乳をかけたなにやら白っぽいものを食べている、というような。
わたしの正面には娘がすわっていて、その目が不審そうにすっとほそまるとき、わたしは自分が自分に課している食事がはずかしくなり、身もだえせんばかりに「いやァー、ははは」といいわけを始めるのでした。
すごいな、と思うのは、わたし以外の家族のだれひとり、とくにわたしを否定する言葉はなく、ののしられることもなく、わたしの実験的食生活はいまもなおつづいているのです。
「だいじょうぶ?」という言葉はかけられた記憶がありますが。
そのように、自分が自分本位の自分勝手な食生活をしておりますと、子供たちに対してあれこれいえないんだなァ。
もともと、わたしは自分に好き嫌いが多いほうだと自覚していて、兄のひとりが肉の食べられない偏食家であったことから、子供たちの好き嫌いに関しては気にしていませんでした。
食事に関しては、他者と食事をする際にどうなのか、という点。
相手を不快にさせないようなあれこれ。
そうしたことを社会に出る子供たちに伝える必要性。
とかなんとか、そんなこと。
わたしが印象に残っている食事は、息子が保育園にかよっていたとき、お手伝いに行って他の保護者や先生方と給食を食べたときのことです。
わたしのななめ向かいに園長先生がすわりました。
園長先生は大柄な女性で、ひかえめな方でした。
その日は給食にコロッケが出たのを覚えています。
そして、園長先生はそのコロッケを、右手と左手とに1本ずつ箸を持って切り分けました。
わたしはその箸づかいにおどろき、「エエエーッ?」となりました。
さらに園長先生は給食の大半を食べ残し、ごちそうさまをして一足先に去っていったのです。
わたしの頭のなかは「スッゲー、スッゲェー、スゲェー、スゲェ」とエコーしていました。
どういうことかというと、保育園のトップ、園長先生ともあろう方がきれいな箸づかいとはほど遠い食事をし、食事を残している!
しかも、よりによって保護者の眼前でそれやっちゃうぅうう? ということです。
そこはさ、保護者の前くらいは体裁をとりつくろって、子供の手本となる食事マナーを、ですね。
そういうキレイゴト、タテマエをふっとばしている、という点が、わたしの心をゆさぶり、ふるわせるのです。アリガトウアリガトウ
箸づかいごときは、その人の知性、品位をおとしめない。
ちなみに園長先生の父親もまたどこぞで園長先生をしており、つまりは教育者であるはずなので、そういう環境に育ちつつあの箸づかいを維持した点もすばらしいな、とわたしは胸をふるわせたのです。
園長先生は本選びのセンスがすばらしかったことも申し添えておきます。
もっとも、わたしは園長先生ほどの知性も品位もないので、自分の箸づかいにおびえながら他者と食事をしなければなりません。
ただ、ありがたいことにかれこれ5年ほど他者と食事をする機会がなかったので、今後もそのようにありたいと望んでいます。
そんなわけで、わたしのなかの食事のきまりごとは自壊し、他の家族がそれを受け入れた過程において、わたしのなかの「かあちゃん」は徐々に崩壊していったのではないか、と推測できるのです。
「かあちゃん」すなわち、わたしのなかの「理想的な母親像」です。
わたしが理想的な母親を演じなければならないと感じているとき、「かあちゃん」は発動しました。←おそらく
娘との対話がラクになった
すくなくとも、わたしは、娘とのつき合いがラクになりました。
それは、娘に負荷がかかっているだけなのかもしれません。
前向きに考えるとするなら、娘が負荷を受けもってくれる相手になった、ということでしょうか。
この場合の負荷とは、気づかい、心くばり等々といいかえられるでしょう。
一方で、高校に通い、他者自壊との交流を余儀なくされている娘が、家庭内においても心のままにふるまえないのはストレスがたまるかもしれない、とも思います。
いまこの時代に高校生である娘の心の在り方は、わたしが思いもよらないほど傷つきやすく、もろく繊細で、おどろかされます。
好きなものですら、周囲に左右され、好きと表現することができない、というような。
すべての表現は評価され、上手でなければならない。
上手でなければ、好きなものですら手放さなければならなくなる。
わたしは娘がなにをいっているのか、わかりませんでした。
それは横と比べているから。
もっと、自分の成長を見てー。
縦で比べて、自分の成長をかみしめてー。
そのように、高2娘を見つめておりますと、自分の中高生時代には自分の世界があって、友達もわりと勝手な輩でめぐまれていたし、自分は十分タフだったなと思います。
いまも生きている時点で、そうなんだよな。
そんなわけで、わたしは、かなり「わたし」になってきています。
ではまたー。