まー、お仕事の関係もあって、意にそまぬ表現をおこなう必要もあるとは思いますが。
そういうことではなく、高2の娘に伝えたいこととして。
以下。
好きなものを好きなように表現するんだよ。
他者からの評価を望まないなら、だれにも見せなければいい。
ひたすらひとりで自分自身のためだけに創作したらいいよ。
そうする時間はあり、そうしている時間は至福の時間だからだよ。
他者が介入してきたとき、そうした時間は、表現は、多少なりとも乱れる。
だから、自分ひとりの表現を思うさま楽しむがいいよ。
創造のよろこび、表現のよろこびを知れ
自分の心や思考を伝えるとき、さまざまな方法がある。
たいていは言葉、でも言葉以外の表現、音楽、絵でもいい。
音、記号もあるだろう。
伝えるのは、自分以外のだれか、他者、他人。
あなたを知らない人。
あなたを知らない人が、あなたの表現に触れて、あなたに関心を示す。
もしかしたら、その見知らぬ人があなたに返事を出すかもしれない。
その返事は、あなたを傷つけるだろうか?
あるいは、あなたを有頂天にさせる?
その返事によって、あなたの表現は変わってしまうのか?
たったひとりの見知らぬ人によって?
では、ひとりではなく、大勢の、いわゆる「みんな」だとしたら?
あなたの表現にたいして、みんなが好き勝手にそれぞれの表現でもって返事を投げてくる。
あなたに向けられた表現は、あなたを傷つけ、あなたを有頂天にさせる。
あなたの心は、他者が向けてくる主張にたいして、あまりにもろい。
あなたが表現して主張するように、他者もまた主張をもちそれぞれに表現しているだけのこと。
さて、表現に分類される中でも、作品はとても貴重だ。
なぜなら、作品として仕上げることのできる人はわずかだからだ。
おおげさではない。
多くの人は、作品を仕上げることができない。
頭の中にあるイメージとしての作品を、引っぱり出して既存の表現方法へと変換できないんだ。
頭の中にあるだけでは、作品としては認められない。
あなたの中にどんなすばらしい情景があり、それを思うたびに涙が浮かんでしまうほどの傑作であるとしても、あなたが表現する手段を持たなければ、他者に伝えられない。
作品として成立しないのだ。
わかるね?
どんなに稚拙であれ、表現すること、伝えようと努力すること。
それが完成したとき、作品になる。
投げやりにならずに、自分の納得するおわりを目指して完成させる。
また、完成をむかえた作品にたいして、あまり卑下しないこと。
うぬぼれるくらいの気持ちで、自分をほめる。
出来をうんぬんするのではなく、まず完成をむかえたよろこびを噛みしめたらいい。
そして、つぎの作品に取りかかるんだ。
ただ、そのくりかえし。
あなたが他者のことばかりいうから、よけいなことかもしれないが教えてあげよう。
あなたの表現、作品を否定する輩がいるとして、そのうちのどれだけが自分の表現を持ち、これまでに作品を仕上げたことがあるか。
ほぼいない。
まずいない。
あるいは、自分の表現や作品を隠しもっているだけで、他者に伝える勇気のない輩だよ。
自分の作品に責任をもち、誇りをもち、勇気をもって、他者に他者に伝えようとしているあなたをコケにする輩を相手にしなくていいのは、そういうこと。
やらないやつが、やってるやつに文句ばっかりいう。
その手の法則が発動しているだけだ。
自分が創作し、作品を完成させたとき、また創作をつづけているとき。
だれが他者の創作を見て笑うだろうか。
その作品にその人がどれだけの熱意と時間をかけてのぞんだか、自分自身で作品を仕上げた経験があればわかるね?
あなたがずっと好きで好きでたまらなくてどうしようもないものを、創作として吐き出すとき、他者の評価も承認もいらない。
それは、あなたの引き出しの奥深くにしまい込まれるだけの作品かもしれない。
あるいはあっさりネット上に発表されたものの、だれひとり目にしない辺境のサイトにただよう運命の作品かもしれない。
しかもそのサイトは、ごていねいにも検索除けをほどこされている、という念の入れよう。
しかし、それはまぎれもなく、あなたの作品であり、あなた自身。
あなたの悲しい遠吠えのような、自分の魂との共鳴を求める声。
それを笑う無粋な輩は犬に食われてなんとやらだ。
まー、そういうことだよ。
娘よ、わかれ。
表現しろ。
伝わることを願って、表現をつづけろ。
ではまたー。