捨てられない人との対話はあきらめています。

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実家には、いま両親が2人で暮らしています。

もののすきまに通り道ができていて、身体を横にして通らなければならない部屋がいくつかあります。

数年前には、わたしも母にものを捨てるようにすすめたことがありました。

しかしいまは、話をしても無駄なので、そうした話はしていません。

ただ、母からいらないものをもらったときには、母のかわりに捨てています。

 

捨てられない人のかわりに捨てています。

 

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実家は片づけない

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たとえば、母は30年ほどまえに購入した、書道用紙を風呂敷に包んで棚の上に置いていました。

その当時、練習に使った書道用紙もすべておなじようにして棚の上に置いてありました。

それを30年後のいま使った、役にたった、捨てなくてよかった、とわたしに鬼の首をとったように語るのです。

 

「そう、よかったね」

とわたしが答えたので、母は満足そうです。

そういうわけですから、わたしは母のいる実家を片づけようとは思わないのです。

 

母が生きているあいだは、おそらくだれもあの家のものを捨てられないでしょう。

地元に住んでいる兄のひとりは、仕事柄いろいろな家に訪問する機会があり、1人暮らしの老人の家を見ることも多かったようです。

 

兄は、ゴミ屋敷や汚部屋といわれるような住まいを数多く見たらしいのです。

それから兄は、母にものを捨てることをすすめましたが、そんなことをいわれても、母はますます得意そうに、ものを捨てない意思を発言するのです。

 

まあ、足元にだけは気をつけたほうがいい、と思いますがね。

年をとると、わずかな段差に転び、わずかなつまずきから骨折し、入院し、入院を機にぼける。

よくあることです。

 

検査入院でつぎつぎとわるいところが見つかったといって、入院が長引くうちに、しっかりしていた父親がぼけてしまった、という話を聞いたことがあります。

老人にとって、なれない入院はぼけのきっかけになります。

 

しかし、いずれにしても、娘のわたしがどう考えようと、母は母のしたいようにするわけですから、あまり気にしないことにしています。

捨てられない人に、捨てるように仕向けるだけのパワーはわたしにはないし、わたしはわたし、母は母です。

 

おなじ家に住んでいないことが救いです。

もっとも、田舎はゴミの回収日数が少ないですし、捨てにくい環境にあるとは思いますが。

 

いずれにしても、母には捨てる気持ちがないのです。

もののない時代に生まれて、食べものに飢え、自分で働くようになってからのバブル時代に買いもののたのしみをおぼえ、捨てられず。

しかたないと思います。

 

夏が近づいてきました。

今年も、あの実家に泊まります。

そして、わが家に帰ってからほっとするのです。

賃貸とはいえ、白い壁、空間。

目に飛び込んでくるもののすくなさ。

 

今年は自動車を手ばなしたので、もしかしたら行かないかもしれない。

そんなことを考えている自分がいます。

つくづく、義務だねぇ、と。

 

ではまたー。

 

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